青い鳥

アール・デコ挿絵本の魅力を思いつくまま

" トリエステ " 二編

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一編は「トリエステの坂道」須賀敦子、片や「トリエステ・国境の町」塩野七生。いずれも数十ページの短い随筆ですが、タイトルに見られる二人の視点の違いは象徴的です。
須賀敦子塩野七生はどちらもイタリアに学び、書き、イタリア人を夫に持ちました。しかしイタリアをいわば「伴侶とした」ことを除くと、この二人は見事なまでに対照的です。

 

須賀敦子     美智子上皇后を同窓会のトップにいただく女子大を卒業後、1960年からミラノに移り、この時代らしいカトリック左派が運営する書店(兼出版社)で翻訳の仕事を始めます。夫は同じ書店の編集者。ピエトロ・ジェルミの映画さながらの貧しい鉄道員の次男坊でした。須賀は一家の嫁らしく振る舞いますが、農村出身の素朴なマンマ(姑)は兄弟の中でただひとり大学を出た次男と翻訳をなりわいとする嫁を、どこか住む世界が違うと感じていたかもしれません。

夫の死後、須賀は13年のイタリア生活を終えて日本に戻ります。デビュー作「ミラノ 霧の風景」で女流文学賞を受賞するのは1991年。帰国から20年がたっていました。それはあとがきに記した『自分にしか書けないものをどのように書けばよいのか』がわかるために必要な歳月だったのでしょう。

 

塩野七生     須賀より七歳年下ですが作家としては大先輩です。1968年に「ルネッサンスの女たち」で作家デビュー。1970年には第二作「チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷」で毎日出版文化賞を受賞。ミラノの須賀に対し、こちらはフィレンツェとローマを拠点に数多くの歴史小説や評論、エッセーを著しています。優雅で切れ味のいい文体はファッションライターで鍛えたものでしょう。

塩野の手法はジャーナリスティックです。構想に基づく取材と現地調査。取材は生身の人間ならインタビュー、過去の出来事なら古文書との対話。そのためか交遊の範囲はとても広く、作品中に友人と記されているだけでもルキノ・ヴィスコンティや著名な政治家、娼婦、漁師の少年に至るまでバラエティ豊かです。塩野のことですから必要とあらば日比谷高校時代の、少なからず東大を経て外交官やエリート官僚になっている同級生たちを活用することにも躊躇はないでしょう。須賀の控えめで濃密な交遊関係とは対照的ですね。

 

須賀の「トリエステの坂道」は、この町で生き、この町で死んだ詩人ウンベルト・サバの足跡をたどった回想です。心の内を一つ一つ言葉に置き換えていくような文章はどこか祈りを思わせます。須賀は敬虔なカトリック教徒でした。

後半では、歩き疲れて入ったカフェでのおどろきを描いています。ウィーン帝政風の内装にくつろぐ、明らかに裕福とわかる老婦人や老紳士たちの服装や宝石には『みずからの手をよごして得たのではない、ひそやかな美しさが光を放っていた。』・・・これは富の蓄積をたとえているのであって、プロレタリア的批判をしているわけではありません。つづけて『若いころウィーンからヴェネツィアに向けてオリエント急行で(トリエステを)通過した』父親が見たら『どんなによろこぶだろうと思った』と、はなはだブルジョア的な感想を述べています。『過ぎ去った時代の、いまはわるさをしなくなった亡霊たちにかこまれて』あたたかいミルク・ティーを飲んだこのシーンは、どこか寂しげな前半とよくバランスしています。

  

塩野の「トリエステ・国境の町」は、この町で生涯を終えた、ナポレオン体制の大立者にして陰謀家ジョセフ・フーシェの葬儀の場面で始まります。冬の暴風に馬が暴れて葬列が乱れ、豪華な柩から転げ出た遺体が泥にまみれる話を引いて『もし私が(この男の伝記を)書くとしたら、この場面から書き始めるだろう。世わたりの才能だけが優れていた、しかし、その生き方に品格というものを感じさせないフーシェの伝記の書き出しとしては、最もふさわしいではないか』と記しています。まさに歴史小説家の面目躍如ですね。

後半では、敗戦によってユーゴスラビア領となったイストリア半島から引き揚げてきた婦人の話を紹介しています。二つのエピソードで、イタリア・オーストリア帝国・旧ユーゴスラビアが時代を変えてきしみ合う、国境の町トリエステの歴史と地政を鮮やかに描いて見せました。巡り合った一人ひとりの生と死に深い思いを寄せる須賀とは対照的に、つねに「国家の生き死に」を主題として歴史小説を書いてきた塩野らしい一編です。塩野はかつて徹底した無神論者を公言していましたが、近年は無神論ではなく日本式の八百よろずであると称しています。でもそれってほとんど同じでは?

 

今日の二冊 : 須賀敦子トリエステの坂道」みすず書房刊  /  塩野七生「イタリアからの手紙」新潮社刊