青い鳥

アール・デコ挿絵本の魅力を思いつくまま

" 食べかた " 二編 須賀敦子と塩野七生から

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上段 塩野七生「男たちへ」/  須賀敦子「コルシア書店の仲間たち」

中段 ルキノ・ヴィスコンティ「山猫」アラン・ドロンクラウディア・カルディナーレ

下段 レナウンダーバンCM 


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須賀敦子はエッセー「コルシア書店の仲間たち」の中で、普段付き合うインテリや庶民とは全く階層の違うV侯爵夫人の会食に招待された際の驚きを記しています。

「同席した女性たちのシックで野蛮なテーブル・マナー。それを愉しげに眺める鷹揚な男たち」に「ヨーロッパの社会の厚み、といったものを私はをひしひしと感じた」。須賀は「シックで野蛮な」マナーがどういうものか具体的には描いていません。おそらく「女性たち」が肝心で、もし「男たち」であればいくら上流の男でもただの「野蛮」になるのではないでしょうか。型通りのテーブルマナーなど無視して思うままに食べ、それでもなお優雅さを失わない様子を指しているのでしょう。

片や、塩野七生はどうやら肉食系らしく、エッセーでしばしばイイ男談義を繰り広げます。喰われるのはゲイリー・クーパーであったりカール・ルイスであったりするのですがここではアラン・ドロン

機会を得てアラン・ドロンが演じるレナウンダーバン(スーツ)のCM8年分を見た時のこと。まさに「ヨーロッパを彼は体現していた。」「彼が主演したどんな映画よりも、素敵だった。」と絶賛したあとに、ディナーシーンだけは彼のボロが出た、何一つテーブルマナーの間違いを犯さなかったためにかえって不自然で、彼が本来持っていた下層の男の魅力をも失っていた、と述べています。

と、ここまでは須賀敦子のエッセーと対をなす収まりのいい話ですが、私はどうも違和感を覚えます。アラン・ドロンが良家の出ではないことは本人も公言しているとおりですが、それをCMの出来と絡めるのはいくらイジワルが芸風の塩野にしてもアンフェアだと思うのですよ。

アラン・ドロンはただのイケメンではありません。役者、それも多くの出演作にも見られる通り相当に巧い役者です。ヴィスコンティ監督「山猫」でのパーティーシーンでは、クラウディア・カルディナーレを相手にワイルドで優雅な青年貴族をのびやかに演じています。ちなみに、それまでは荒くれガンマンのイメージしかなかったバート・ランカスターがここでは堂々たるシチリア貴族の当主になっています。

役者には演出家がつきものです。優れた役者にはそれにふさわしい演出家が必要でしょうがヴィスコンティと一介の広告マンでは比べるべくもありません。アラン・ドロンのディナーシーンに魅力がないのは、まともなフォーマルパーティーに無縁だった日本の広告マンのせいだと、少しは業界を知るイジワルな私は思うのです。

「リッチでないのに リッチな世界などわかりません・・・」という痛ましい遺書を残した天才コピーライターが思い出されます。日本がまさにバブルに向かおうとする時代の話です。

 

今日の二冊 : 須賀敦子「コルシア書店の仲間たち」2001年、白水社 / 塩野七生「男たちへ」1989年、文藝春秋